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「やすらぎの刻~道」は

テレビ朝日開局60周年作品として

2019年4月からスタートします。

 

「やすらぎの刻~道」は

2017年4月ドラマで放送された

やすらぎの郷と同じ

倉本 聰氏の原作・脚本となります。

倉本聰ってどんな人?

やすらぎの刻~道 原作 倉本聰

出典:朝日デジタル

昭和10年(1934年12月31日)、

4人兄弟の次男として

東京・代々木に誕生。

 

 

本名は、山谷馨。

東京大学文学部美学科を卒業、

夫人は、演劇集団 円所属の

女優の平木久子です。

やすらぎの刻~道 原作 倉本聰

学生時代は戦後の混乱期。

倉本聰の唯一の楽しみは、

ラジオドラマと、

新劇でした。

 

 

人を幸せにするドラマを作ろうと

大学卒業後は日本放送に入社。

ディレクターとして働きながら

副業でドラマの脚本を書き始めました。

やすらぎの刻~道 原作 倉本聰

大工も、左官にも

見習いの期間があるように、

10~15年は丁稚の期間、職人として、

シナリオ技術者になろうと思いました。

 

 

そのために10数年は使おうと、

睡眠時間は2時間ほどで

出社するという毎日。

やすらぎの刻~道 原作 倉本聰

出典:オリエンタル劇場

才能はすぐに開花して、

年間50本を手掛けるという

圧倒的な仕事量の超売れっ子に

なりました。

倉本聰が記憶から消したい出来事

やすらぎの刻~道 原作 倉本聰

39才の時、NHKの大河ドラマに

抜擢されたとき

倉本聰の人生は大きく動きます。

 

 

東京・杉並の書斎はその時のまま

残っています。

一体何が起ったのか?

やすらぎの刻~道 原作 倉本聰

勝海舟の台詞の言い回しを

倉本聰が指導することをめぐって、

制作スタッフと対立。

 

 

大喧嘩のまま、

倉本聰は飛行機に乗って行方を

くらませてしまったのです。

やすらぎの刻~道 原作 倉本聰

倉本聰自身は全てを捨てる覚悟で

飛び出しました。

倉本聰は、もう、

シナリオライターにはなれないと

思ったから、ライターは辞めて、

トラックの運転手になろうと

思っていたそうです。

 

 

倉本聰は、

その頃のことは思い出したくないので、

記憶から消しているつもりでいるそうです。

やすらぎの刻~道 原作 倉本聰

 

結局、大河ドラマ勝海舟は

途中で投げ出すことになりました。

 

 

倉本聰は、身寄りはないのに

札幌で暮らし始めました。

当時の倉本聰を受け入れてくれた居酒屋で

顔見知りになった人たちは、

トラック運転士になりたいと言う倉本聰に

本気でつてを探してくれました。

やすらぎの刻~道 原作 倉本聰

コインランドリーで知り合ったホステスは、

「油売ってないで仕事しなさい」と言って、

洗濯を変わってくれました。

 

 

何より、倉本聰の心に響いたのは

彼らが語る身の上話でした。

やすらぎの刻~道 原作 倉本聰

仲間のホステスの自殺、

叶わぬ恋愛、華やかな東京とは違う生活が

そこにはありました。

北の国からが話題になる

やすらぎの刻~道 原作 倉本聰

富良野に移住し、

富良野を舞台にした家族ドラマ

「北の国から」が話題を呼びました。

 

 

「北の国から」は

東京の家族を富良野に

ぶっこんだらどうなるのだろうと思って

書いたものだといいます。

やすらぎの刻~道 原作 倉本聰

「北の国から」の他にも、

歌志内市、上砂川町を舞台にした

「昨日、悲別で」「優しい時間」など

北海道を舞台にした数々のドラマも有名です。

 

 

若手の俳優と脚本家を要請するために、

1984年に「富良野塾」を私財を投じて

開設しました。

やすらぎの刻~道 原作 倉本聰

26年にわたって

その後は卒業生を中心に再編された

「富良野GROUP」にて、

全国公演の脚本・演出を手掛けていましたが

2017年「走る」を最後に

演劇活動から引退を表明し

脚本制作に専念しています。

 

 

かつては、

山田太一・向田邦子と合わせて

「シナリオライター御三家」と

呼ばれました。

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